「比川行進曲」 譜面見つかり話題に 60年以上前に歌われる

60年前の比川行進曲を歌って聴かせてくれた前粟蔵さん(右)と比川公民館の新館長・前底英光さん=12日、比川
【与那国】1954(昭和29)年ごろ、比川小学校や比川青年会で歌われた「比川行進曲」の譜面が祖納の男性宅で見つかり話題になっている。今では、ほとんどの人が聴いたことがないと言うなか、歌を聴いた人たちから「比川公民館の活動歌、応援歌として活用できないか」などの声が上がった。(9面に関連)
その当時、作曲者が勤務していた比川小学校で5年生だった崎枝彦三さん(75=比川)は「卒業するまで歌っていた」と話す。比川青年会活動で歌ったことのある前粟蔵功さん(84=同・農業)は当時20歳だったが「歌を教えられたころをよく覚えている。比川では長いこと歌われていない」と歌詞を併記した譜面に当時の記憶をたどった。
作詞は当時の比川小学校長の前竹万之助氏(与那国出身)。作曲者の奥平潤さん(84)は歌が広まった56年ごろに本島へ転居している。前粟蔵さんは65年前の歌詞を所々思い出せないと言いながらも軽快な行進曲をハミングして聴かせてくれた。
男性は元比川小学校長の田原伊明さん=祖納=に相談したところ田原さんが石垣第二中学校の大浜安功教諭に楽譜を送り、同教諭がCDに音源化した。
歌詞は起承転結で構成。1連の「怒涛逆巻き岩を噛み幾たび襲う嵐にも~われらはついに試練に勝てり今こそ興せ我らが郷土」。3連には「水の清さと美人の里~熟れた蜜柑の紅さす頃~吾らが理想の建設なれり今こそ興せ米倉比川」、4連は「英智のいずみ公民館~比川のさかえ永久に~スクラム組んでいざゆかん興せ比川明るい村」。地域を守る宿命を歌い平和を取り戻した戦後の村おこしで地域が一丸となった。
同行進曲は、1953年に琉球政府が設置奨励した米国高等弁務官資金による公民館建設を機会に、戦後の復興に比川地域が希望にあふれ英知を結集する基になった。 (田頭政英通信員)
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